昭和の書道界に伊藤伸という天才がいた

伊藤伸の書


いろいろな分野で、もしも長生きしていたら歴史が変わったであろう、夭逝した天才といわれる人がいる。たとえば将棋の村山聖は、羽生善治のライバルとして天才と言われたが29才で亡くなった。その生涯を描いた「聖の青春」は書籍、映画化されヒットしたので、知る人も多いだろう。


書道というのは多くの子どもが経験するなじみのある習いごとだが、「書道界」というのを知る人はそれほど多くないだろう(最初にことわっておくと、筆者も書道界とはまったく無縁の門外漢なので、ある程度の誤解はあるかも知れない)。最近は「書家」というと、たとえば武田双雲紫舟などの人気書家がいて、書道甲子園のようなイベントも有名なのでそれを思いうかべる人が多いと思うが、これらは音楽でいえば、ポップ・ミュージックの世界だ。若い人にもファンが多く、華やかだ。


もう少し地味だが歴史と伝統がある、いわゆる「書道界」というのは、これとはやや距離があるように見える。音楽で言えばクラシックの世界といってよいだろう。現代最高といわれる書家だけが出品する現代書道二十人展というのもあるが、誰でもが応募できる公募展の日展は毎年5千点以上の応募があり競争率も高く、入選するだけで「日展作家」として一流の仲間入り、特選をとれば超一流の書家、そして日展の審査員は書道界に大きな影響力を持つ。それによる弊害が問題になったこともあったが、ここではそれにふれないでおこう。この伝統的な「書道界」はずっと昔から続いてきた。むしろ書道のなかに先に述べたような「ポップで若者に人気のあるカテゴリー」ができる最近までは、こちらしかなかったと言っても良い。


この「書道界」だが、とりあえず話を簡単にするために最初に、大ざっぱに2つに分けておく。「漢字」と「かな」であり、この2つは作家も大きく異なる。「漢字」は中国古代文字に始まる中国書道に歴史をもつ世界、「かな」は日本の平安時代に歴史をもつ世界だ。筆者は「かな」の話はまったく知らず、これは「漢字」の話である。


さて、日本の「漢字」の書道の世界には、西川寧(1902-1989)という巨人がいた。日本における中国書道研究を大きく発展させた研究者・書家で、書道界で初の文化勲章も受賞している。そして、この西川寧の弟子で若いころから注目されていたのが、今の書道界の頂点のひとり、新井光風だ。たぶん書道の「漢字」の世界をきわめようとする人で、今この人を知らない人はいない。


だが昭和の時代、実は西川寧の弟子に新井とならび「天才」と呼ばれた書家がいたことを知る人は、あまり多くないかも知れない。実際にこのふたりがどういう関係だったかは知らないが、傍目には若手トップを競い切磋琢磨する最高のライバルだった。それが伊藤伸(いとうしん)である。


伊藤は、同じ「漢字」であっても新井とは大きく異なる書風で、新井が漢字のなかで「篆書(てんしょ)」と呼ばれるジャンルを得意とするのに対し、伊藤は「楷書(かいしょ)」を得意とした。特に中国の北魏の時代の書に精通し、学者としての精緻な解釈に基づく文章、書家としての若々しくセンスのある書体には、ダンディな風貌、やわらかな語り口とも相まって、書をこころざす多くの若者があこがれた。今みても、その力強く爽やかな造形、紙を切るような線の鋭さなど、まったく色あせない。


雑誌「墨」 1985年 5月号


伊藤伸の書


だが伊藤伸は残念ながら、昭和64年、そして1月に元号がかわって平成元年となった1989年10月に急逝した。心酔していた師の西川寧が87才でなくなったのと同じ年、不慮の事故だったがまるで師のあとを追うかのように51才でなくなった。葬儀では、友人代表として新井光風が挨拶をした。縁あって子どもの頃から伊藤に接し、すでに大学を卒業していた筆者も静かに列席した。


伊藤が今なお生きていれば82才、新井とともに書道界の頂点にいたかもしれないし、いずれにせよ書道界における「漢字」の歴史が今とは少しちがったものになっていたことは間違いないだろう(2020年11月 記。写真は筆者の所蔵品から)。

T. Kamba (神場知成)

人間・機械融合系コミュニケーションシステムのデザインに興味を持つ。コンピュータ・サイエンス分野で、メーカー系研究所の研究員を経て、現在は東洋大学 情報連携学部 教授。専門はユーザ・エクスペリエンス・デザインなど。 趣味は音楽全般。特に自分でも演奏するピアノを中心にジャズ、クラシック。ジャズはミシェル・ペトルチアーニ、ビル・エヴァンス等。クラシックはバッハ、フィリップ・グラス、ブラームス、グレン・グールドなど。

One Comment

  1. 生前お会いする機会など到底ありませんでしたが、作品が大好きでした。

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