スマートシティ計画が向き合うであろうもの

とある海外の識者による、スマートシティの構想、課題などを聞いていたときのことだ。


最初は例によって、スマートシティとは何かという話で、ここはまあ一般論で書くと「IoT等を用いて社会インフラ、生活インフラを効率的に管理・運営し、環境、生活、経済などを継続的に発展させることが可能な都市」というようなことだ。それでスマートシティの要素として、人々、交通、生活、環境、ガバナンス、経済などが挙げられていた。


その時は僕は、「これってSmart Cityの課題とは言うけれどSmart Nationと置きかえてもまったく自然に聞こえるわけで、課題を明確にするには、なぜCity(都市)という単位で考える必要があるかを明確にする必要があるんじゃないかな」と思いながら聞いていた。実際、シンガポールなどはスマートネーションと言って進めている。それで、「まあ国家行政がやるか都市行政がやるかという話は、いずれにせよ難しいからなぁ。シンガポールは国と言っても都市のようなものだし。」という程度で、ぼーっと聞いていたのだが、しばらく聞いているうちに、ふとまったく別の考えが浮かんだ。



それは、「スマートシティ構想が向き合うものは、スマートネーション構想ではなくて、スマートサイバーシティ構想じゃないんだろうか?」という話である。「向き合う」というのは、「対峙する」というような意味で、「そこをよく考えておかないと、そもそも考える意味がなくなるのでは?」ということだ。たとえば、仮に20年前に街の教育水準を上げようと計画し、図書館を整備したとしても、今やみんなネットで情報を検索し、本を買うととしてもネットで探し、ネットでレコメンドされるのであれば、街の人の知のインフラはサイバー世界に押さえられている。交通網を整備したところで、もしもタクシーはUber的なものがすべての動きを把握し(Uberが世界をこんな風にグリッド化して管理するという話はなかなか興味深かった)、さらに、世界を押さえるMaaS事業者が制御するようなことになってしまえば、「道路を国道にするか県道にするか」といったレベルの話ではなく、「交通データを、リアル世界の組織単位で管理しているか、サイバー世界の組織単位で管理しているか」、という話である。


そう考えれば、今や世界経済でもっともホットな話題の一つであるリブラ(libra)にしたって、リアル世界の組織とサイバー世界の組織の覇権争いだ。グーグルのスマートシティ構想であるSidewalk Labsが、最初の適用場所として選んだトロント市が、データ保有や取り扱いの権利の関連で市民と摩擦が起きているという話もあるけれど、これなんか、リアルな市がスマートシティ計画の実行をスマートサイバーシティのプロと組んだら揉めている、という話にも聞こえる。


というわけで、タイトルに挙げたスマートシティ計画が向き合うものはスマートサイバーシティ計画で、リアルな世界とサイバーの世界の間では、それがシティ(都市)であるかネーション(国家)にあるかに関わらず、これからいろいろ整合性をとるのに苦労する部分がありそうだな、と思うのだけど、さてどうでしょう?

T. Kamba (神場知成)

人間・機械融合系コミュニケーションシステムのデザインに興味を持つ。コンピュータ・サイエンス分野で、メーカー系研究所の研究員を経て、現在は東洋大学 情報連携学部 教授。専門はユーザ・エクスペリエンス・デザインなど。 趣味は音楽全般。特に自分でも演奏するピアノを中心にジャズ、クラシック。ジャズはミシェル・ペトルチアーニ、ビル・エヴァンス等。クラシックはバッハ、フィリップ・グラス、ブラームス、グレン・グールドなど。

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